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いいたいことは少しある

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2009年 04月 29日

護国寺に泣く

護国寺の駅を出て、音羽に建つ新しいマンションに住むエージェントと打合せをおえたあと
音羽から護国寺、お茶の水大学、跡見学園、茗荷谷駅まであるいた。
夕方です。自転車に乗っているひとがかすかに夕日にそまって傍を抜けた。
僕は、打合せのあと、新橋で、飲み会があり、そこに向かった。
焼肉やキムチをたくさん食べた。そして飲んだ。

さらに、もう一軒よって、帰宅して、疲れて、昼まで寝た。そして今にいたる。





護国寺の門構え、たとえば「羅生門」で門がとても印象深く描かれているでしょう。あういう おもむき。
門に続く、土塀、瓦、さいしょは「いいなあ」と思って見ていた。
寺の奥には、青葉が繁っていて、薫風に、揺れていた。
「いいなあ」という風景でしょう。
お茶の水大学の正面にたつと街路樹が植えてある。これもまた「いいなあ」と思った。
ほんとうは、このころから「いいなあ」から「すこし泣きたいかなあ」とセンチメンタルな気分になっていた。

僕は自分でいうのもなんだけれども、仕事を中心とした生活を、ここ数年、もしくは、もっと長い期間送っている。

なにかに傾注し、かたよるということは、なにかを失うことである。
なにかを失っているということの、なにかは、普段気がつかないのだけれども
護国寺やお茶の水大学の風景を見ていたら、そういう風景に流れている時間を
僕はすっかり失っているということを思いしったのでした。

風景に流れている時間、みたいな暗喩は、まったく説明になっていないのだけれども
「あくせくしない、ゆったりかまえていく、時間のなかで生きる」というようなものを感じたのです。

あくせく生きていく時間を過ごすことが可能な間は、そこにまっとうしよう!と思うのだけれど、
明日も来年もあくせくするに違いないのだけれども、
それだけでいいのか
みたいな感じを護国寺を見ていて強く実感したのです。


なんだかよくわからないでしょう。すいません。




八九間空で雨ふる柳哉 (はっくけんそらであめふるやなぎかな )   芭蕉・春
1間は約1.8182メートルだから、
14メートルから16メートルのあたりで雨が降っている。ということになります。

空に雨がふって、地上に降ってこない雨などないわけだから
この場合は、地上から14メートルから16メートル先の雨を認識した、という意味でしょう。
首を天に向け、雨のおちるさまをずっと見ていて、どのくらい高い先の、雨を認識できるか、
松尾芭蕉は試みたのではないでしょうかね。

だから、松尾さんは雨にぬれないに近い状況にあったのでしょう。

霧のような、ミストのような雨だったかもしれないし、雨あがりの様子かもしれない。
柳の枝が天蓋になっていたのかもしれません。



雨が、柳の緑にかさなると、鮮明に、雨降りのさまが、見えるでしょう。
緑は雨を鮮明にさせる。





この句は2週間まえに、新聞で読んで、ずっと、ひっかかっていた。
そこに加えることに、護国寺あたりの緑の青葉を見たわけです。



そんな感じよ!

by kouji_kotani | 2009-04-29 12:57 | Comments(0)


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