95年の頃、1995年の頃、
僕はプールに夢中だった。
自宅近くの杉並の区民プールにかよっていた。
自転車にのって、川にそって、進むと
区民プールがあった。
ひとごみのない開場したばかりの午前中に
券売機でチケットを買って
ロッカーで水着に着替えた。
午前中のひかりが
窓をとおしてプールにさしこんでいた。
陽光のきらめくプールの水面と底は
きれいだった。
手と足をまっすぐにのばして
まえにすすむ。
その瞬間、僕は太陽にいっぱいの水のなかにいるおだやかさに
満ちていた。
プールからあがるとシャワーをあびた。
シャワーはきもちよい。
バスタオルでからだとあたまをぬぐうと
プールのにおいがした。
きがえて自転車にのると
ぬれた髪が風にあたり
僕は自由だった。
自由というのは
からだをつかいこんだあとの風のなかにある
ということをボブ・ディランが言っていたのを
音楽雑誌で読んだことがある。
うそ。
でも、からだをつかいこんだあとの風のなかに自由がある
というのはそれほど
うそでない気がする。
1995年の頃はそんな一年だった。