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いいたいことは少しある

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2015年 12月 28日

師走の月

月が出ている。
師走の夜に月が出ている。

僕はいつものように
Apple musicとヘッドフォンで
音楽を聴きながら
師走の月を見ている。

月は明るく
師走の夜空に
白光を放っている。

いろんな事があった今年と
いろんな事があるかもしれない来年の
間にある
隙間のような12月28日。

隙間のような今日の夜の
夜空に月が見える。

隙間のような今日は
何もかもが
許されて
おやすみなさいと
諭されているかのようだ。

ビートルズを聴きながら
深い呼吸をしながら
肩こりの鈍痛を抱えつつ
師走の月を見ていると
人類の叡智だとか
人類の偉大さだとか
そういう大仰な事を
考えてしまう。
それは
隙間のような今日だからこそ
かもしれない。

夏休みが始まる初日に
限りない可能性を感じて
くらくらしたのが
小学生だとすると
御用納めに
師走の月を見て
人類の偉大に
惚けているのは
社会人の正しいあり方かも
しれない。

あれれLet It Beだ!

生まれてきて
このかた
何回聴いたことかしら。
Let It Be。

師走の月は高く
夜空をのぼっていく。
高く。
気持ちいいくらいに高く。


by kouji_kotani | 2015-12-28 22:08 | Comments(2)
2015年 12月 26日

Appleの囲い込み


Apple musicでビートルズが
聴けるようになりました。

ビートルズが聴けるようになったね
と昨夜教えられて
クリスマスイブから聴けるようになったね
と答えました。


毎日Apple musicに
ログインしているので
その変化に
僕は敏感になっています。
僕はビートルズが
クリスマスイブから
聴けるようになった
と理解しています。

クリスマスイブの日に
Apple musicにログインすると
ラバーソウルの
アルバムジャケットが
目に入ったからです。



僕にとって
音楽のフォーマットは
スマホに変わった。


ジェリー・ダグラスや矢野顕子を
Apple musicで聴くことは
出来ないし、
Apple musicの限界もかなりある。

しかし、
すぐ手元にあるという
利便の良さには
勝てない気がする。

囲い込み戦略という
競争戦略があるけども
完ぺきに
Apple musicに
囲まれた感じがする。



スマホは時間さえあれば
触っている。
タバコを吸っていた時みたいに
常習性がある。
利便の良さに加えて
常習性もある。


このところ
常習性から自由になりたい
と考えたりもします。

禁煙みたいに
禁スマホを
少しだけ
実践してみたいとも
考えたりします。

高速道路に乗る
ジャンクションみたいに
あらゆるソーシャルメディアは
入り口としての機能を
日々強化している。

囲い込みを
強化している。
そんな感じですよね。
誰もが通る場所を
かつては視聴率と言っていた。
今は情報インフラが
その役目を目指し
誰もが通る故に
価値を上げている。

そう理解しています。






by kouji_kotani | 2015-12-26 07:52 | Comments(0)
2015年 12月 23日

12月とボブ・ディラン

a0067135_18310188.jpeg

ピーター・バラカンの
音楽番組を聴くと
かなりの頻度で
ボブ・ディランの楽曲が
流れる。

レーズンパンを齧って
レーズンを噛む頻度と
同じくらいに
かなりの頻度で
ボブ・ディランの楽曲が
流れる。

音楽センスの良い
ピーター・バラカンが
愛聴するボブ・ディランは
音楽センスのかたまりである
という事になる。

冬の寒いこの頃の時期になると
スーズ・ロトロと
手を組んで歩いている
ボブ・ディランの
アルバムジャケットを
思い出す。

寒い冬に、ボブ・ディランの楽曲は
とても心地よく聴ける気がする。

若い頃のボブ・ディランも
歳を重ねたボブ・ディランも
常に詩を書き
歌に仕立てて
語りかけてくる。

松尾芭蕉は旅に出ながら
歌を詠んだ。

ボブ・ディランは
旅に出ても
旅に出なくても
ずっとずっと歌をつくった。

創作意欲が半端ではないと思う。

ちょっとワルそうな
ボブ・ディランの若い頃の
写真を見ると
創作意欲の動機は
なんとはなく分かる。
世の中に何か言いたい
という動機は
若さ故だからだ。
ちょっとワルそうというのも
表現のひとつだ。
スーズ・ロトロと歩く
ボブ・ディランは
若さに満ちているし
先を考えているように思える。

歳を重ねたボブ・ディランは
何を思いながら
歌を歌うのだろう。
創作活動は
もつすでに充分だと
いう気さえする。

ジョン・レノンは
ステージを去り
家庭に篭り
主夫になった。
復帰して間もなく
銃弾に倒れた。

ジョン・レノンが
銃弾に倒れたのは
12月だ。

僕は
その時
学校にいて
ジョン・レノンが暗殺された
というニュースを聞いた。
机に英語の辞書があった
気がする。
英語を習っていたと思う。

ジョン・レノンは
転がる石の様に
ひとつのところに留まることなく
最後は
マンハッタンに倒れた。
流転の一生だったと思う。

ボブ・ディランは
お寺の境内にある
広葉樹みたいに
常にあり続ける。
風に吹かれると
葉や枝が揺れて
たおやかな幹は
境内に根づいている。

それがボブ・ディランだ。

今年も残り少し。

ボブ・ディランは
師走に優しく歌い続けてくれる。

読経みたいな
歌唱方法。

12月は
ジョン・レノンが倒れ
ボブ・ディランの歌声が似つかわしい
そういう月だ。




by kouji_kotani | 2015-12-23 18:30 | Comments(0)
2015年 12月 15日

幸せの原風景



幸せを体感する手立ては
いくつかあって
そのなかに
美味しいものを食べる
ということがある。

お寿司とか天ぷらとか
美味しいものを食べると
幸せを実感する。

お値段の高いものばかりとは
限らない。

先日
僕はパンを食べた。
朝早くからやっている
パン屋があって
焼きたてのパンを食べた。
僕はピロシキを食べた。
他にもいくつか食べた。

朝方に食べた
ピロシキは
こんなにうまいもの
他にもあるのか
と思うくらいに
美味しかった。

数百円で手にできる
幸せの具現化が
朝方に食べたピロシキだった。

食べる、寝る、着る、話をする、
あらゆる所作を通じて
幸せの具現化は
可能だと思う。

カラダをほぐしてもらう、
大きく息をつく

それも幸せの具現化に
結びつくと思う。

挨拶をする、時間を守る
それも
また幸せの具現化に
至ると思える。

食べる、寝る、着る、着替える、
話をする、話を聴く、
カラダを動かす、
カラダの強張りを柔らかくする、
深呼吸する、
挨拶をする、
時間を守る。

幸せの具現化につながる
これらは
幼稚園の時に
幼稚園児が
幼稚園の先生に
所作を教わることだらけだ。

幼稚園教育は
オトナにとって
かけがいのない
幸せのよりどころへと
昇格するのではないかと思う。

おにぎりが
ピロシキに変わるだけだと思う。

幼稚園のそばを歩くと
庭園を走る幼稚園児がいる。
それは幸せの原風景かも
しれない。

by kouji_kotani | 2015-12-15 13:40 | Comments(0)
2015年 12月 10日

幸せについて


夏目漱石は国費でイギリスに行き
文学を研究した。
明治時代の人らしく
遥か遠くイギリスの地で
身を削って
文学を研究した。

日本を代表する文化人である
夏目漱石が
文学を考え
人の幸せとは何かを考えた。
その成果は文庫で
読む事が出来る。

人の幸せは
好きな事をして働く事である。

身を削って学問をおさめた
夏目漱石の
幸福論は
極めてシンプルである。

好きな事を職業として
働く事ができれば
大概の憂いは晴れ
幸せになれる。

幸せになりたければ
嗚呼自分の天職は
これなのか
と言い切れる仕事に就く。
天職と思えるほどに
自分に相応しい仕事で
生計を立てる事が出来れば
人は幸福になる。

それが夏目漱石の結論だ。

それでは
天職だと言える仕事をしている
人はどのくらいに
いるのだろう。

紆余曲折は人の常。

たどり着いた先で
人の縁を結び
働く。
それは天職とは言えないだろう。
人の縁が
働く上での支えであり
夏目漱石の言う
幸福になるための仕事とは
程遠いだろう。

朝方にネクタイを結び
歯を磨き
靴ひもを結び
働き出る。
その行き先の
仕事場は
天職と言えるのだろうか。

何かを飲み込み
何かを割り切り
何かを信じ
何かを諦め
人は働く。

夏目漱石の幸福論とは
程遠いにもかかわらず
何かを飲み込み
何かを割り切り
何かを信じ
何かを諦め
カラダを騙しつつ
働くことに
幸せは
まったく無いのだろうか。

幸福論の論旨から外れた
仕事場の仕事で働く人は
全て幸せから
はじかれるのだろうか。

そんなことはないだろうと思う。
紆余曲折して
ため息のひとつふたつみっつ
ついだかゆえに
幸せから見放される。
そんなこともないだろう。
寒ければ厚着をして
暑ければ薄着をして
おはようございますと言い
ありがとうございますと言い
おはすみなさいと言う
そんな毎日は
幸せから見捨てられた
ありようなのか。
そんなこともないだろう。

なんでもない日に
幸せはないのだろうか。
そんなこともないだろう。

なんでもないけれども
それだけで
もう充分だと思う
そういう瞬間も
多々あるでしょう。

わたしはひとりでない
ということは
福音だと思う。

おはようございますという彼がいて
おはようございますという彼女がいて
ありがとうございますという彼がいて
ありがとうございますという彼女がいて
おやすみなさいといって別れる彼がいて
おやすみなさいといって別れる彼女がいる。

それだけで
充分なんだと思える。

by kouji_kotani | 2015-12-10 23:55 | Comments(0)
2015年 12月 04日

今年も


涙があるだろう
今年も
涙ながらの歌があるだろう
固めたこぶしがあるだろう
大笑いがあるだろう今年も
あくびをするだろう
今年も
短い旅に出るだろう
そして帰ってくるだろう

農夫は野に
数学者は書斎に
眠れぬ夜があるだろう
だが愛するだろう
今年も
自分より小さなものを
自分を超えて大きなものを

くだらぬことに喜ぶだろう
今年も
ささやかな幸せがあり
それは大きな不幸を
忘れさせることはできぬだろう
けれど娘は背が伸びるだろう
そして樹も
御飯のおいしい日があるだろう
新しい靴を一足買うだろう
決心はにぶるだろう今年も
しかし去年とちがうだろうほんの少し
今年は

地平は遠く果てないだろう
宇宙へと大きなロケットはのぼり
子等は駆けてゆくだろう

今年も歓びがあるだろう
生きてゆくかぎり
いなむことのできぬ希望が

谷川俊太郎さんの今年という詩です。

この詩を分解すると
以下になります。


涙ながらの歌
固めたこぶし
大笑い
あくび
短い旅
眠れぬ夜
愛する
くだらぬことに喜ぶ
ささやかな幸せ
忘れさせることはできない大きな不幸せ
御飯のおいしい日
新しい靴を一足買う
決心はにぶる
去年とちがうだろうほんの少し
歓び
生きてゆくかぎり
いなむことのできぬ希望

以上が今年もあるだろうと
予想している。
そういう詩です。

今年は
ではなくて
今年もの
もが
眼目だと理解しています。

今年も来年も再来年も
ずっと先も
ずっとずっと先も
という意味が

には含まれる。


涙ながらの歌
固めたこぶし
大笑い
あくび
短い旅
眠れぬ夜
愛する
くだらぬことに喜ぶ
ささやかな幸せ
忘れさせることはできない大きな不幸せ
御飯のおいしい日
新しい靴を一足買う
決心はにぶる
去年とちがうだろうほんの少し
歓び
生きてゆくかぎり
いなむことのできぬ希望

は毎年毎年毎年
あるだろう

言っている。
つまり


涙ながらの歌
固めたこぶし
大笑い
あくび
短い旅
眠れぬ夜
愛する
くだらぬことに喜ぶ
ささやかな幸せ
忘れさせることはできない大きな不幸せ
御飯のおいしい日
新しい靴を一足買う
決心はにぶる
去年とちがうだろうほんの少し
歓び
生きてゆくかぎり
いなむことのできぬ希望

は変わらない
普遍的な事柄である
と言っている。

そう僕は理解しています。
師走になると
なんとはなく
谷川俊太郎さんの
この詩を思い出し
読み返すたびに
いたく感心してしまいます。

by kouji_kotani | 2015-12-04 21:12 | Comments(0)
2015年 12月 03日

寂しさ耐性



人である以上
寂しいなあと
思う事が
誰しもあるはず。

寂しさを耐えるには
寂しさ耐性が
必要になる。

寂しさ耐性を
鍛えるには
どうしたら良いか。

僕は
今、新幹線に搭乗していまして
まだまだ乗る時間が続くので
ちょっと考えてみます。

音楽聴きながらなので
考えると言っても
ながらですから
たいした結論には
いたらないと
思います。

ダラダラ続くので
無理に読む必要もないです。
はい。
断る必要もないか。

寂しさを耐えるには
味覚、聴覚、視覚、触覚、嗅覚の
どれを使えば良いのでしょうか。

海に向かって
バカ野郎〜と叫ぶのは
視覚と、聴覚を
刺激しているんだろうね。

でも海に向かってバカ野郎で
寂しさが
治るのならば
それはたいした
寂しさではない
という気もします。

寂しいって
そんなもんじゃないだろう。

寂しさ耐性を
修得する
手がかりは
五覚でないのかも
しれない。

記憶かな。記憶。

記憶から何かを引き出して
寂しさを打ち消すことは
出来るような気がする。

昨日の幸せだった記憶や
はるか昔のささやかな記憶。
風景の記憶。
花鳥風月の記憶。
土地の記憶。
音の記憶。
色の記憶。
肌さわりの記憶。
コトバの記憶。

記憶を手がかりに
はあ、となだめる。
それは可能な事だと思う。

そもそも寂しいのは
人寂しい。
人に対して寂しい。
勿論、イヌに逢いたくて寂しい
という事もあるだろうし
故郷が寂しい事だったり
ある種の後悔に対して
悔やみつつ寂しいと
いう事だってあるだろう。

でも、大半は
人寂しいのだと
思う。

人寂しいのは
人寂しいを
打ち消す
代替が必要になる。

赤に黄色を混ぜると
緑になるように
寂しさに記憶を混ぜると
何かが中和されるような
気がします。

人寂しさへの代替としては
記憶が有効な
気もします。

簡単に思い出す記憶もあれば
ひねり出して思い出す記憶もある。

紅茶にマドレーヌを浸して
食していた瞬間
記憶がふつふつと
蘇ってくる。
それは
20世紀最大の小説と
言われている
マルセル・プルーストの
失われた時を求めて
ですね。

紅茶にマドレーヌは
簡単に引き出す事の出来る
記憶でなくて
ひねり出す記憶でもなくて
勝手にココロが動き出す
記憶に牽引されている
状態の事なんだと思う。

飛行機雲は
まっすぐに伸びていきますよね。

記憶がズルズルと
引き出されていく。
飛行機雲が伸びていくように
ズルズル記憶が引き出されて
いく。

紅茶にマドレーヌを食して
鮮明に蘇ってきた
記憶の数々は
記憶が自分を牽引している。

自分なのに自分ではない何かが
自分を牽引していく。

そういう記憶の創出は
人寂しさへの代替に
かなりの精度を持って
なり得る。
そう思います。

人寂しいのも
そもそも自分でどうしようもない
寂しさだから
それに対する耐性は
自分でどうしようもなく
記憶が湧き上がる
状態になれば
耐性を修得する事が
出来ると思います。

と、ダラダラと書きましたが
実はもっと簡単な方法が
人寂しさを解決する方法が
あります。

それは
泣く
事だ。

泣くと
すかっとする。
お腹さえ空いてくる。

普段から
泣けるように
自分を鍛えておけば
寂しさへの
耐性は修得出来る
気がします。

泣けるように
イメージトレーニングをする。
女優さんが
俳優さんが
上島竜兵が
庄司歌江が
泣きますよね。
すぐに泣く。

彼にできて
彼女にできて
わたしや君に
出来ないはずはない。
泣く。すぐに泣けるように
トレーニングする。

すると
寂しさ耐性は
修得出来る。

そんな風に考えてます。

まだ、名古屋着かないぜ。

by kouji_kotani | 2015-12-03 22:24 | Comments(0)